2010/09/21

砧公園

いつもの公園をブラブラ。
逞しい木の根の造形に眼を奪われ、写真を撮っているとお歳を召した方に声を掛けられた。
「この木はなあ、○○さんの家の木だった」
「あの木の辺りは○○さん、向こうは○○さん」
「だから旧い木だと100年ぐらいは経つのかねえ」
「公園の中に柿の木が散らばっているでしょ、そこには大体家があったんだよ、庭の柿の木」

皇紀2600年(1940年・昭和15年)記念の緑地公園事業以前、
そこかしこにここいら辺りには数軒の家があり、鬱蒼とした竹林や田畑、
小川(谷戸川)が流れとてものどかな景色が拡がっていたそうだ。
公園計画は昭和15年より以前に、純粋に緑地として立案されていたが
戦争の影が色濃くなり急遽、防衛のための機能も担うよう変更され、
当該地域の家は順次交換で近傍の土地へと移った。

緑地は防空の為の部隊や訓練所、大砲も置かれ、訓練実戦問わずもちろん実弾の発射も茶飯事。
末期、大空襲では焼夷弾が雨あられと降り、近隣の現在NHK技研があるあたりには
B29が撃墜され落ちた、とも。P51が高高度から急降下で飛来、爆弾を落とし
さらに機銃掃射を行ったのち、翼をヒラヒラさせ去って行く姿を幾度も眼にした、そうだ。

戦中戦後、食糧難のさなか田畑は作物を産み、野ウサギを捕まえ
谷戸川や野川ではウナギやドジョウを獲ったそうで、少しは恵まれていたかな、とのこと。
戦後は放牧も行われていたこと、ある時期にはパブリックのゴルフ場(9H) だったこと
砧の東宝撮影所にGHQが見学でやってきて、ジープに置いてあるタバコをくすねた思い出。
もうこんな話を知っているのも近所では4-5人しかいない、
とうとう戦争で帰ってこなかった者も沢山いる…

木の向こうの緑の広場では家族・恋人・友人たちのグループが
思い思いの平穏な休日を過ごしている風景が変わらず拡がっている。


部屋に帰ってからふと気づいたのだが、敬老の日だった。
何かの巡り合わせなのだろうか。






















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